2021/04/02
前々回のコラムでウィルバーの引用を基に
発達の定義の一つとして〝多面的多次元的視座の獲得〟を挙げた。
それに加えて今回、もう一つ加えたい。
発達とは〝自己認識意識の拡張〟なのだ。と。
要は
どこまでが〝自分〟と認識出来るか。
身体、心、魂、スピリット….どの部分を自分の本体と捉えているか。
心を本体と捉えると身体は心を表現する為の媒体となる。
魂を本体と捉えると、心体は魂を顕現する為の、
スピリットを本体とすると心体に加え魂までもがその顕れの為の媒体となる。
そして、スピリットの先はまだまだ続いていく。
本体の位置が変わると世界の捉え方、価値観が変わっていく。
けれども生身の身体を持って生きている以上、
このような意味での発達が幸せに繋がるかと問われれば、
必ずしもそうではない、と私は感じている。
むしろ貴方が今感じている苦しみとは別の次元の苦しみがあるかもしれない。
端的に言えば、今より違う意味で(異なる側面が)生きにくくなるかもしれない。
何故なら一つには、良き理解者が格段に減るから。
しかし、
自分の本質をこの世界に顕現しようともがく事はある意味とても美しいとも思う。
どのみち
本体の位置が変わってしまえばもう戻る事は出来ないのだ。
発達の定義の一つとして〝多面的多次元的視座の獲得〟を挙げた。
それに加えて今回、もう一つ加えたい。
発達とは〝自己認識意識の拡張〟なのだ。と。
要は
どこまでが〝自分〟と認識出来るか。
身体、心、魂、スピリット….どの部分を自分の本体と捉えているか。
心を本体と捉えると身体は心を表現する為の媒体となる。
魂を本体と捉えると、心体は魂を顕現する為の、
スピリットを本体とすると心体に加え魂までもがその顕れの為の媒体となる。
そして、スピリットの先はまだまだ続いていく。
本体の位置が変わると世界の捉え方、価値観が変わっていく。
けれども生身の身体を持って生きている以上、
このような意味での発達が幸せに繋がるかと問われれば、
必ずしもそうではない、と私は感じている。
むしろ貴方が今感じている苦しみとは別の次元の苦しみがあるかもしれない。
端的に言えば、今より違う意味で(異なる側面が)生きにくくなるかもしれない。
何故なら一つには、良き理解者が格段に減るから。
しかし、
自分の本質をこの世界に顕現しようともがく事はある意味とても美しいとも思う。
どのみち
本体の位置が変わってしまえばもう戻る事は出来ないのだ。
コメントを残す