2019/10/31
さて〝そうではない〟の2つ目の意味は
自己肯定感を持てる為の解決法に〝無償に自分を愛してくれる存在〟は必ずしも絶対条件ではない、
ということである。
私もかつて自分の存在意味を見出せず、愛される価値などないと思っていた。
愛される価値など分からず相手を試してばかりいた。
そしてその無理難題に相手が疲れ果て私のもとを去っていくと「ほら、やっぱり貴方も私の事を本当に愛してなどいなかった」と自分の内で確信を深めホッとするのだ。
けれどもそんな自分から脱する方法というのも知っていたつもりでいた。
両親のプライバシーもあるためここで詳細を述べる事は避けるが(何故なら私は両親を愛しているから)
私の知っていたつもりでいたそんな自分から脱する為の解決法は、父に再び会い、その父に
「お前のこと、いつも考えていたし心配していたよ」
と一言言って貰うこと。
そのたった一言を父に言って貰えたならば、それでなにか変わる気がしていた。
けれどもそれを話した精神科の先生からは「知り合いの探偵にお父さんを探してもらってあげるから2、3日連絡を待っていなさい」と言われたきりそれから連絡は一切なく、私は信頼しかけていた、心を開きかけていた先生に見捨てられたと感じ、それ以来、うっすら開きかけた心の扉を再びピシャリと締め切り、自分の価値のなさを心に刻み込み10数年が過ぎた。
そして今から3年程前。
もうこれ以上このままの自分ではどうにもならない。どうにも進めない。1度父に会わねばこれ以上何も進まない。
そんな行き詰まりを感じ、自分で父を探したのだ。
住民票を辿ればその作業はあっけないほど簡単だった。
自分で探そうとしなかった10数年前はやはり、その時ではなかったのかもしれない。
私にはこの10数年が必要だったのかもしれない。
そんな事を考えながら久し振りに会った父は、笑ってしまう程自分の期待していた言葉をかけてはくれなかった。
むしろその逆だった。
「お前は強いから何も心配はしていなかった」
「お前は大丈夫だ」
けれどもその時思ったのだ。
「ああ、この人は私の求めるような愛を与えてはくれなかったけれど、けれど、この人なりに私のことを愛していてくれていたのかもしれない」
そして心の底から父に対して
「私という存在をこの世に産み出してくれてありがとう」
と思えた。
「貴方のお陰で私は今までの苦しい想いも全部ひっくるめて、生きているからこそ出来る貴重な経験をたくさんすることが出来ました」
それを伝えて、もうそれから父には会っていない。
もう会う必要性を感じないから。
何故なら私はそう思えた瞬間、今迄の呪縛から解かれたから。
そして相手の押し付けてくる理想に応えようとしているうちに、自分も、
相手に理想を押し付けていたと気付けたから。
愛してくれているとはこういう事だ、という理想を相手に押し付けていた。
お互いが存在しない理想を求め、絶望していたのだ。
愛し方には色々ある。
自分とのそれとは表現方法は異なるかもしれない、けれども〝その人なりに〟愛しているのだ。
それを私は新たな体験として上書きすることが出来た。
もう相手を試すことはない。
相手を問う前にまず自分を問う。
自分は本当にその人を愛しているのか。
それはどの程度の愛なのか。
誰かが現れるから自分が変われるのではなく、むしろ順番はその逆なのかもしれない。
自分が変わるから誰かが現れるのだ。
私の上書きしたこの父との体験は、その起こった事実だけを見ると、ともすれば薄氷をパリンっと割る最後の一打になってしまいかねないものだった。
けれどもそうはならず、新たな体験として上書きすることが出来た。
10数年前の私がもしあの時父に会って同じ体験をしていたら、こんな結末にはならなかっただろうと思う。私は壊れ、今頃生きてはいないかもしれない。
この違いはなんなのか。
単刀直入に言えば私は
『立脚点の変更』
だと思う。
感情の波からフッと意識が逸脱し、そしてその事実を客観的に俯瞰する。
10数年の私はそれが出来なかった。だから壊れてしまう。
それが出来るようになるにはどうすればいいのか。
要はスピリチュアリティの視座なのだ。
ここでいうスピリチュアリティとは〝高次の精神活動〟という意味である。
スピリチュアルときくと、なんだか怪しい、と思う方も多いかと思う。
私もそうだったし、実際怪しい人達がいることも確かである。
けれども、日本はオウム真理教の事件もあってか、スピリチュアルというものに対してのアレルギーは諸外国と比べるとある意味では異常なものがあるかもしれない。
しかし、
スピリチュアルとは実はより充実した人生を生きていくのに欠かせない実践的なアイテムなのだ。
神秘体験などの不思議な体験をすることがゴールなのではない。
本当のスピリチュアルを体験した人に共通してあるもの。
それは自分を超えた俯瞰の視座である。
そしてそれはマインドフルネスなどの瞑想法が目指すところでもあるのだ。
スピリチュアルな俯瞰の視座を持てたなら
人生においてラビリンスに迷いこんだ自分が今どこにいるのか分かる状態にある。
又、その時その時の感情の海に溺れず、その感情から脱して自分を、そして相手を、その現状を客観的に俯瞰し眺めることが出来る。
とはいえ、その域に達するのはとても大変なことで、実践的なアイテムどころかそれに到達することを探求するだけで人生が終わってしまってもおかしくない。
人間塾アレーテイアでは心理学分野のカウンセリング、ワークに加えて、エネルギー医学も取り入れている。
その時その時の貴方に合わせたアプローチでその感情の海から抜け出て客観的に俯瞰することができる。
そうして様々な悩みをきっかけに脱同一化を繰り返していく内に貴方の自我は強化され、合わせて瞑想や丹田を感じる簡単な運動を連携させていくことにより、いつか貴方のタイミングでスピリチュアルな視座を持てる時期が来ることを促進している。
ご興味、疑問点等ありましたらいつでも気軽に連絡下さいましたら嬉しい限りです。
自己肯定感を持てる為の解決法に〝無償に自分を愛してくれる存在〟は必ずしも絶対条件ではない、
ということである。
私もかつて自分の存在意味を見出せず、愛される価値などないと思っていた。
愛される価値など分からず相手を試してばかりいた。
そしてその無理難題に相手が疲れ果て私のもとを去っていくと「ほら、やっぱり貴方も私の事を本当に愛してなどいなかった」と自分の内で確信を深めホッとするのだ。
けれどもそんな自分から脱する方法というのも知っていたつもりでいた。
両親のプライバシーもあるためここで詳細を述べる事は避けるが(何故なら私は両親を愛しているから)
私の知っていたつもりでいたそんな自分から脱する為の解決法は、父に再び会い、その父に
「お前のこと、いつも考えていたし心配していたよ」
と一言言って貰うこと。
そのたった一言を父に言って貰えたならば、それでなにか変わる気がしていた。
けれどもそれを話した精神科の先生からは「知り合いの探偵にお父さんを探してもらってあげるから2、3日連絡を待っていなさい」と言われたきりそれから連絡は一切なく、私は信頼しかけていた、心を開きかけていた先生に見捨てられたと感じ、それ以来、うっすら開きかけた心の扉を再びピシャリと締め切り、自分の価値のなさを心に刻み込み10数年が過ぎた。
そして今から3年程前。
もうこれ以上このままの自分ではどうにもならない。どうにも進めない。1度父に会わねばこれ以上何も進まない。
そんな行き詰まりを感じ、自分で父を探したのだ。
住民票を辿ればその作業はあっけないほど簡単だった。
自分で探そうとしなかった10数年前はやはり、その時ではなかったのかもしれない。
私にはこの10数年が必要だったのかもしれない。
そんな事を考えながら久し振りに会った父は、笑ってしまう程自分の期待していた言葉をかけてはくれなかった。
むしろその逆だった。
「お前は強いから何も心配はしていなかった」
「お前は大丈夫だ」
けれどもその時思ったのだ。
「ああ、この人は私の求めるような愛を与えてはくれなかったけれど、けれど、この人なりに私のことを愛していてくれていたのかもしれない」
そして心の底から父に対して
「私という存在をこの世に産み出してくれてありがとう」
と思えた。
「貴方のお陰で私は今までの苦しい想いも全部ひっくるめて、生きているからこそ出来る貴重な経験をたくさんすることが出来ました」
それを伝えて、もうそれから父には会っていない。
もう会う必要性を感じないから。
何故なら私はそう思えた瞬間、今迄の呪縛から解かれたから。
そして相手の押し付けてくる理想に応えようとしているうちに、自分も、
相手に理想を押し付けていたと気付けたから。
愛してくれているとはこういう事だ、という理想を相手に押し付けていた。
お互いが存在しない理想を求め、絶望していたのだ。
愛し方には色々ある。
自分とのそれとは表現方法は異なるかもしれない、けれども〝その人なりに〟愛しているのだ。
それを私は新たな体験として上書きすることが出来た。
もう相手を試すことはない。
相手を問う前にまず自分を問う。
自分は本当にその人を愛しているのか。
それはどの程度の愛なのか。
誰かが現れるから自分が変われるのではなく、むしろ順番はその逆なのかもしれない。
自分が変わるから誰かが現れるのだ。
私の上書きしたこの父との体験は、その起こった事実だけを見ると、ともすれば薄氷をパリンっと割る最後の一打になってしまいかねないものだった。
けれどもそうはならず、新たな体験として上書きすることが出来た。
10数年前の私がもしあの時父に会って同じ体験をしていたら、こんな結末にはならなかっただろうと思う。私は壊れ、今頃生きてはいないかもしれない。
この違いはなんなのか。
単刀直入に言えば私は
『立脚点の変更』
だと思う。
感情の波からフッと意識が逸脱し、そしてその事実を客観的に俯瞰する。
10数年の私はそれが出来なかった。だから壊れてしまう。
それが出来るようになるにはどうすればいいのか。
要はスピリチュアリティの視座なのだ。
ここでいうスピリチュアリティとは〝高次の精神活動〟という意味である。
スピリチュアルときくと、なんだか怪しい、と思う方も多いかと思う。
私もそうだったし、実際怪しい人達がいることも確かである。
けれども、日本はオウム真理教の事件もあってか、スピリチュアルというものに対してのアレルギーは諸外国と比べるとある意味では異常なものがあるかもしれない。
しかし、
スピリチュアルとは実はより充実した人生を生きていくのに欠かせない実践的なアイテムなのだ。
神秘体験などの不思議な体験をすることがゴールなのではない。
本当のスピリチュアルを体験した人に共通してあるもの。
それは自分を超えた俯瞰の視座である。
そしてそれはマインドフルネスなどの瞑想法が目指すところでもあるのだ。
スピリチュアルな俯瞰の視座を持てたなら
人生においてラビリンスに迷いこんだ自分が今どこにいるのか分かる状態にある。
又、その時その時の感情の海に溺れず、その感情から脱して自分を、そして相手を、その現状を客観的に俯瞰し眺めることが出来る。
とはいえ、その域に達するのはとても大変なことで、実践的なアイテムどころかそれに到達することを探求するだけで人生が終わってしまってもおかしくない。
人間塾アレーテイアでは心理学分野のカウンセリング、ワークに加えて、エネルギー医学も取り入れている。
その時その時の貴方に合わせたアプローチでその感情の海から抜け出て客観的に俯瞰することができる。
そうして様々な悩みをきっかけに脱同一化を繰り返していく内に貴方の自我は強化され、合わせて瞑想や丹田を感じる簡単な運動を連携させていくことにより、いつか貴方のタイミングでスピリチュアルな視座を持てる時期が来ることを促進している。
ご興味、疑問点等ありましたらいつでも気軽に連絡下さいましたら嬉しい限りです。
コメントを残す