2019/10/21
「自分には愛される価値がない」
「生きていても意味がない」
他人になんと言われようと彼等のその想いが揺らがないのは、その確信となっている原体験がキチンとあるから。
自分にとって最も大切な存在から〝無償の愛〟を与えてもらった体験がない。
そればかりか与えて貰えるのは条件付けの愛ばかり。
〝ママノ言ウコトキイタラ愛シテアゲル〟
子供は両親のいう通りの自分になろうと一生懸命努力する。
どんな両親でも子供にとっては大好きな、かけがえのない両親だから。
(両親に、もしくは自分を見棄てたたその人に対して物凄い怨みを持っている人も多く見受けられるが、怨むのは、自分が本当はその存在に愛して欲しかったからである)
そして見棄てられる。
完璧になれなかったから。
大好きな両親の想いに100%応えられなかったから。
「自分の存在そのものには価値などない」
「相手の条件通りの自分になって初めてそこに価値が出る」
そうやって〝本来の自分〟というものを見失っていく。
相手の望む自分という目標目指して人格形成がされていく。
そんな自分にはいくらでも〝替え〟がいるということを自覚しながら。
自分は相手の条件を満たしただけのただの容れ物だから。
同じように、もしくは自分以上に条件を満たしている人がもし見つかったなら、自分は必要ではなくなる。
〝替え〟はいくらでもいる。
その確信は強迫観念となって常に彼等を襲い続ける。
完璧に。相手にとって完璧な自分でなければ。
完璧など、ないというのに。
何故なら相手もまた、自分が本当に何を望んでいるのかわかっていないから。
そう考えていくと自己肯定感を持てない愛着障害の解消は〝無償に自分を愛してくれる存在〟の出現でしか解決出来ないように感じる。
ただ、実際はそうではない。
この〝そうではない〟には2種類の意味があって、
1つ目は
例え無償の愛に発展するかもしれない可能性を含んだ愛を持った相手が現れたとしても、無償の愛を捧げたいと思ってくれた相手が現れたとしても、
自己肯定感を持てない、自分に価値を感じられないその彼等は、
〝相手のその気持ちを信じられない〟
からである。
それまで自分を愛してくれる人に出会ったことがないから。
愛されることを体験したことがないから、自分が愛されるということを信じられない。
自分が愛されることなどあるわけない、とさえ思っている。
だから試す。
相手のその愛が本物なのかを。
そしてそれは、〝本物ではない〟という結果に行き着くまで続けられる。
愛されたい彼等は、愛されていない、という確信を欲しがっている。
何故か。
愛されていないという現実には〝馴染み〟があるから。
馴染みがあるから安心するのだ。
逆に愛されているという現実には〝馴染み〟がない。
だから不安になる。今までのパターンでは通用しない何かがそこにはある。
そして彼等が1番に恐れている事、それは、
『再び愛する人に捨てられる事』
だから、それが怖くて自分から捨てる。自分が捨てられる前に。
もしくは始めからこれは愛されているわけではないのだ、と言い聞かせる。自分はただの容れ物に過ぎない。だから自分を見て欲しいなどと言わない。元から捨てられることを前提としている。
よく自己愛性障害と言われている症状は、これとは逆の傾向をクローズアップされることが多い。
「もっと自分を見て」と。
これが所謂世間において認識されている自己肯定感を持てない愛着障害による自己愛性障害だろう。
根本的なメカニズムは同じだ。
不安だから相手を試す。
その試し方が表に出るか裏にこもるかの違いで、前述した「自分を見ないで」の表現も、世間には余り知られていないれっきとした自己愛性障害の症状である。
誰よりも愛されたいのに、誰よりも愛されることを恐れている。
もう一度愛した人に棄てられたなら、自分が壊れてしまう。
ギリギリの薄氷の精神状態で状態でこれまでなんとか生きてきた彼等は、次に何かひとつきあればその薄氷がパリンっと割れてしまうことを痛いくらいに感じとっているのだ。
さて次回は
「無償に自分を愛してくれる存在は絶対条件ではない」の意味の2つ目を述べていくと共に、
いよいよ、自分の経験を踏まえた上での自己肯定感を持つ為の私なりの解決論を提示していこうと思う。
今迄生きるのが苦しかった貴方、そしてプロとして心理職を生業としている貴方も必見です。
「生きていても意味がない」
他人になんと言われようと彼等のその想いが揺らがないのは、その確信となっている原体験がキチンとあるから。
自分にとって最も大切な存在から〝無償の愛〟を与えてもらった体験がない。
そればかりか与えて貰えるのは条件付けの愛ばかり。
〝ママノ言ウコトキイタラ愛シテアゲル〟
子供は両親のいう通りの自分になろうと一生懸命努力する。
どんな両親でも子供にとっては大好きな、かけがえのない両親だから。
(両親に、もしくは自分を見棄てたたその人に対して物凄い怨みを持っている人も多く見受けられるが、怨むのは、自分が本当はその存在に愛して欲しかったからである)
そして見棄てられる。
完璧になれなかったから。
大好きな両親の想いに100%応えられなかったから。
「自分の存在そのものには価値などない」
「相手の条件通りの自分になって初めてそこに価値が出る」
そうやって〝本来の自分〟というものを見失っていく。
相手の望む自分という目標目指して人格形成がされていく。
そんな自分にはいくらでも〝替え〟がいるということを自覚しながら。
自分は相手の条件を満たしただけのただの容れ物だから。
同じように、もしくは自分以上に条件を満たしている人がもし見つかったなら、自分は必要ではなくなる。
〝替え〟はいくらでもいる。
その確信は強迫観念となって常に彼等を襲い続ける。
完璧に。相手にとって完璧な自分でなければ。
完璧など、ないというのに。
何故なら相手もまた、自分が本当に何を望んでいるのかわかっていないから。
そう考えていくと自己肯定感を持てない愛着障害の解消は〝無償に自分を愛してくれる存在〟の出現でしか解決出来ないように感じる。
ただ、実際はそうではない。
この〝そうではない〟には2種類の意味があって、
1つ目は
例え無償の愛に発展するかもしれない可能性を含んだ愛を持った相手が現れたとしても、無償の愛を捧げたいと思ってくれた相手が現れたとしても、
自己肯定感を持てない、自分に価値を感じられないその彼等は、
〝相手のその気持ちを信じられない〟
からである。
それまで自分を愛してくれる人に出会ったことがないから。
愛されることを体験したことがないから、自分が愛されるということを信じられない。
自分が愛されることなどあるわけない、とさえ思っている。
だから試す。
相手のその愛が本物なのかを。
そしてそれは、〝本物ではない〟という結果に行き着くまで続けられる。
愛されたい彼等は、愛されていない、という確信を欲しがっている。
何故か。
愛されていないという現実には〝馴染み〟があるから。
馴染みがあるから安心するのだ。
逆に愛されているという現実には〝馴染み〟がない。
だから不安になる。今までのパターンでは通用しない何かがそこにはある。
そして彼等が1番に恐れている事、それは、
『再び愛する人に捨てられる事』
だから、それが怖くて自分から捨てる。自分が捨てられる前に。
もしくは始めからこれは愛されているわけではないのだ、と言い聞かせる。自分はただの容れ物に過ぎない。だから自分を見て欲しいなどと言わない。元から捨てられることを前提としている。
よく自己愛性障害と言われている症状は、これとは逆の傾向をクローズアップされることが多い。
「もっと自分を見て」と。
これが所謂世間において認識されている自己肯定感を持てない愛着障害による自己愛性障害だろう。
根本的なメカニズムは同じだ。
不安だから相手を試す。
その試し方が表に出るか裏にこもるかの違いで、前述した「自分を見ないで」の表現も、世間には余り知られていないれっきとした自己愛性障害の症状である。
誰よりも愛されたいのに、誰よりも愛されることを恐れている。
もう一度愛した人に棄てられたなら、自分が壊れてしまう。
ギリギリの薄氷の精神状態で状態でこれまでなんとか生きてきた彼等は、次に何かひとつきあればその薄氷がパリンっと割れてしまうことを痛いくらいに感じとっているのだ。
さて次回は
「無償に自分を愛してくれる存在は絶対条件ではない」の意味の2つ目を述べていくと共に、
いよいよ、自分の経験を踏まえた上での自己肯定感を持つ為の私なりの解決論を提示していこうと思う。
今迄生きるのが苦しかった貴方、そしてプロとして心理職を生業としている貴方も必見です。
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