2019/07/18
〝私〟という自覚の1つとして〝自由意志〟というものが挙げられます。
私は目の前にある珈琲カップに手を伸ばし珈琲を飲む。
これは、今、〝自分〟が考え決定したこと。
その決定の主体は自分なのだから、今認識している自分が〝自分〟だというわけです。
果たして本当にそうなのでしょうか?
『意志』とはそもそも誰が決定しているものなのでしょう?
「それはやっぱり〝私〟じゃない?だって、自由意志とも言うし。」
では、その〝私〟とは誰なのでしょう?
「え?〝私〟は〝私〟でしょ?今話してる私。」
その今話している〝私〟が本当に意志の最終的権限を握っているのでしょうか?
「だって、今飲んでるアイスカフェラテだって、さっき私が飲みたいと思って私がお店に入ろうと思って私がレジで頼んだし。」
と、思っている〝私〟という意識は実はエピソード記憶を認識する為の、
意識体験のクオリア(現象)を体験し感じる為のものである、という理論が存在します。
(これが絶対というわけではありませんし、そうでないとも、私には言えませんが、、)
その理論によると、
自由意志は顕在意識が〝決めた〟と感じる0,35秒前に実は無意識で決められているというのです。
故に、
私が〝私〟と感じているこの意識は実は本体ではなく、本体は〝無意識〟ということになるのです。
仏教でいう「無我」「非我」がなんの矛盾もなくここに存在することとなります。
私と思っていた顕在意識が私でないのだから、私ではない(非我)。
私と思っていた顕在意識が私ではないのだから、私はそこにいない(無我)。
というわけです。
ではその無意識はどうやって意志を決めているのでしょう。
アサジオリによるサイコシンセシス曰く、
無意識の奥にはパーソナルセルフ、トランスパーソナルセルフ、
更に集合的無意識(普遍的無意識)という領域があるとはユングも述べていることです。
又、インド哲学的宇宙の根本原理として個の最深部存在するミクロの核アートマンは宇宙の根本原理マクロの核ブラフマンは繋がっている、とも言います。
『意志』の発信元とは何処なのでしょう。
その発信元が本当の〝自分〟なのでしょうか?
今こうやってこの文章をうっているのは〝この私〟なのかそれとも、、、?
私は目の前にある珈琲カップに手を伸ばし珈琲を飲む。
これは、今、〝自分〟が考え決定したこと。
その決定の主体は自分なのだから、今認識している自分が〝自分〟だというわけです。
果たして本当にそうなのでしょうか?
『意志』とはそもそも誰が決定しているものなのでしょう?
「それはやっぱり〝私〟じゃない?だって、自由意志とも言うし。」
では、その〝私〟とは誰なのでしょう?
「え?〝私〟は〝私〟でしょ?今話してる私。」
その今話している〝私〟が本当に意志の最終的権限を握っているのでしょうか?
「だって、今飲んでるアイスカフェラテだって、さっき私が飲みたいと思って私がお店に入ろうと思って私がレジで頼んだし。」
と、思っている〝私〟という意識は実はエピソード記憶を認識する為の、
意識体験のクオリア(現象)を体験し感じる為のものである、という理論が存在します。
(これが絶対というわけではありませんし、そうでないとも、私には言えませんが、、)
その理論によると、
自由意志は顕在意識が〝決めた〟と感じる0,35秒前に実は無意識で決められているというのです。
故に、
私が〝私〟と感じているこの意識は実は本体ではなく、本体は〝無意識〟ということになるのです。
仏教でいう「無我」「非我」がなんの矛盾もなくここに存在することとなります。
私と思っていた顕在意識が私でないのだから、私ではない(非我)。
私と思っていた顕在意識が私ではないのだから、私はそこにいない(無我)。
というわけです。
ではその無意識はどうやって意志を決めているのでしょう。
アサジオリによるサイコシンセシス曰く、
無意識の奥にはパーソナルセルフ、トランスパーソナルセルフ、
更に集合的無意識(普遍的無意識)という領域があるとはユングも述べていることです。
又、インド哲学的宇宙の根本原理として個の最深部存在するミクロの核アートマンは宇宙の根本原理マクロの核ブラフマンは繋がっている、とも言います。
『意志』の発信元とは何処なのでしょう。
その発信元が本当の〝自分〟なのでしょうか?
今こうやってこの文章をうっているのは〝この私〟なのかそれとも、、、?
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