2019/12/12
「善と悪は何故存在するのでしょう」
「善と悪は存在すると思いますか?」
このような問いを投げかけられる事が実はかなりの頻度である。
〝善と悪〟について考えるキッカケになるような事件、事象がメディアに日々溢れているということも、その要因の1つだろう。
『善と悪は何故存在するのか』
これは国境、宗派問わず、昔から人々の心中に燻ってきた問いだと思う。
『善と悪は存在するのか』
この枕言葉には(それを言葉に出して言う言わないにかかわらず)多分、この言葉が念頭にあってのものなのだろう。
『神というものが存在するならば何故』
〝神〟は皆に愛を与え幸せに導く存在ではないのか。
なのに何故、人々はこんなにも飢え、苦しんでいるのか。
無償の愛を与えてくれるはずの〝神〟という存在に対するアンビバレントな感情がそこにはある。
信じていた母親に裏切られた、そんな感情に近いだろうか。
「何故善と悪が存在するのか」という言葉は良く耳にするが
「善と悪が存在するのは当たり前だ」というような実存主義的な言葉は余り耳にしたことがないように感じられる。
そもそも実存主義的思考の人々にとっては善悪の存在なんて当たり前過ぎてわざわざ口にするまでもないのか。
実は実存主義と言っている人々も皆、心の何処かでは神的存在を呼求している、又は渇望しているからなのか。
真偽の程は定かではないが面白い現象だとも思う。
話しを戻そう。
『神というものが存在するならば何故、悪なるものが存在するのか』
貴方はどうお考えだろうか。
勿論この問いに正確なんてない。
強いて言うならば、貴方自身が腑におちて納得感の得られるもの。
それが今の貴方にとっての答えである。
その事を踏まえていただき、では、私なりの腑におちている答えを記したいと思う。
『神というものが存在するならば何故、悪なるものが存在するのか』
この問いにはまず大きく2つの方向性があるように考えられる。
1つは
・神は存在する。その〝悪〟というものに神の何か真意(意味)が込められている。故に悪など存在しない
というもの。
そしてもう1つは
・悪は存在する。神は悪をつくらない。故に神は存在しない。
といった三段論法的な意見である。
ここで背理法的思考で神について考えてみたいとも思うのだが、それは又次回にとっておくとして、
では私はどちら派なのか、ということだが、
正確にいえばどちらとも言えないというのが正直なところだ。
この2つを考えるにあたってはまず、では〝神〟とは一体なんなのか。についての考察も避けては通れないだろうが、先程も言ったようにその面白そうな試みは又後日にとっておくとして、
なのでここでは神がいる、いないの部分は少し傍に置いておくとして(肝心のところを置いてしまって申し訳ないと心より思うのだが)
現象として、善と悪というものについて私の感じるものを述べていきたい。
私は有神論者というよりは、敢えて〇〇論者というカテゴリー分けをするとすると、
多次元論者、とでも云おうか。
この多次元的世界構造に関しては過去に書いているので、そして又改めて書くとも思うので、詳しくはそちらを読んでいただければ助かるのだが、
簡単に言えばこの多次元的世界は根源的な全ての源なる存在がある。
その存在が在る場所がある。(と、私は感じている)
まだ何も分化していない、全てのエッセンスの大元になっているものだ。
それが下次元へと降りてくるにつれて徐々に様々な要素へと分化されていく訳なのだが、
その大元には、勿論、この現世界(次元)において善や悪といわれているものも含まれている。
なので、ここだけ見れば善も悪も同じ1つのもの、ということになる。
けれどもそれらが次元下降していくに従って、この現世界(次元)において善と悪という相反するものとして存在する様に感じられるようになっていくのだ。
では、
私達がここで善、悪と言っているものに少しフォーカスを当てて見ていきたい。
善、悪としている基準とはなんだろう。
一方の視点では悪でもそれがもう一方の視点では善である。
時代が変われば善とされていたことも悪となる。
文化もそもそものレイヤーから引き下ろされ悪とされてしまったりもする。
何か大切なものを守ろうとする為に悪をする。それは完全なる悪なのか。
そうせざるおえない社会システム自体は善なのか悪なのか。
〝善も悪もない。皆、ただ必死に生きている〟
私はそう感じてしまう。
しかしここで1つ、全てを一緒くたにしてはならないと思うことは
人間の成長段階である。
残忍と思われる、人を人と思わない、そんな行為を平気でする人々がいる。
この人々はでは悪なのか。
善も悪もない。その手前の段階。
この人々は極めて動物に近い発達段階であるに過ぎない。
動物的本能に近い衝動で動いてしまう。
それは生物学的要素も勿論あるだろう。
そして合わせてその周囲の環境に問題があるのかもしれない。
そんな環境をつくりだす地球規模の社会システムに問題がないとも言えない。
悪ではないから罰は与えない、と言っているのではない。
罰はあって然りである。
その社会で生きている限りはその社会のルールが基準になる。
完璧な人間などいないように、ちょっとの心の隙間に理性を利かせる為の抑止力にもそのルールはある。
ただそのルールが善かというとそうではない。
こう話していくと混乱してくるかもしれない。
では一体何を基準としたらいいのか!と。
基準は貴方の中にある。
多次元論者的に物申せば、
元々1つだったこの多次元的世界には共通の倫理的感覚が存在する。
それは、時代や国、民族、宗派を超えた最大公約数的な倫理として感じとれる。
それさえ皆が感じ取れるようになったなら、ルールなんて、法律なんて必要なくなる。
そういった類いのものである。
現代人、特に日本人は
社会に適応して生きていく為に自身の様々な感覚を麻痺させて生きている。
それは勿論自身を守る為に必要な防衛手段なのだが、肝心のところを麻痺させていたのでは、
本当に能動的な(本当の自分を生き生きと生きる)生き方は難しい。
そしてその日々の抑制が身体やメンタルの不調となって現れてくるのだ。
その人個々人によって状況、プロセスは様々なので、皆んなが皆んな、ただ身体を緩める、心を解放することが良いとは私は思わない。
なので個々人それぞれに適した方法を適したタイミングでアプローチすることが大切なのだ。
地に足を着けた心理カウンセリングによる自我創り。
自律神経を整える等の身体からのアプローチ。
エネルギーワーク。
スピリチュアルな意志の活用。
それらがどれが正しいではなく、タイミングを見て適材適所で使い分けていく。
大切なのはそれが可能な倫理観を持ったセラピストの方なのだと思う。
セラピスト自身が自分の弱さをキチンと認識し、自身の軸を持ってその倫理観に沿って生きること。
その大切さを
『善と悪とは何故存在するのか』という問いを投げかけられる度、
私は毎回い、痛烈に思い知らされのだ。
「善と悪は存在すると思いますか?」
このような問いを投げかけられる事が実はかなりの頻度である。
〝善と悪〟について考えるキッカケになるような事件、事象がメディアに日々溢れているということも、その要因の1つだろう。
『善と悪は何故存在するのか』
これは国境、宗派問わず、昔から人々の心中に燻ってきた問いだと思う。
『善と悪は存在するのか』
この枕言葉には(それを言葉に出して言う言わないにかかわらず)多分、この言葉が念頭にあってのものなのだろう。
『神というものが存在するならば何故』
〝神〟は皆に愛を与え幸せに導く存在ではないのか。
なのに何故、人々はこんなにも飢え、苦しんでいるのか。
無償の愛を与えてくれるはずの〝神〟という存在に対するアンビバレントな感情がそこにはある。
信じていた母親に裏切られた、そんな感情に近いだろうか。
「何故善と悪が存在するのか」という言葉は良く耳にするが
「善と悪が存在するのは当たり前だ」というような実存主義的な言葉は余り耳にしたことがないように感じられる。
そもそも実存主義的思考の人々にとっては善悪の存在なんて当たり前過ぎてわざわざ口にするまでもないのか。
実は実存主義と言っている人々も皆、心の何処かでは神的存在を呼求している、又は渇望しているからなのか。
真偽の程は定かではないが面白い現象だとも思う。
話しを戻そう。
『神というものが存在するならば何故、悪なるものが存在するのか』
貴方はどうお考えだろうか。
勿論この問いに正確なんてない。
強いて言うならば、貴方自身が腑におちて納得感の得られるもの。
それが今の貴方にとっての答えである。
その事を踏まえていただき、では、私なりの腑におちている答えを記したいと思う。
『神というものが存在するならば何故、悪なるものが存在するのか』
この問いにはまず大きく2つの方向性があるように考えられる。
1つは
・神は存在する。その〝悪〟というものに神の何か真意(意味)が込められている。故に悪など存在しない
というもの。
そしてもう1つは
・悪は存在する。神は悪をつくらない。故に神は存在しない。
といった三段論法的な意見である。
ここで背理法的思考で神について考えてみたいとも思うのだが、それは又次回にとっておくとして、
では私はどちら派なのか、ということだが、
正確にいえばどちらとも言えないというのが正直なところだ。
この2つを考えるにあたってはまず、では〝神〟とは一体なんなのか。についての考察も避けては通れないだろうが、先程も言ったようにその面白そうな試みは又後日にとっておくとして、
なのでここでは神がいる、いないの部分は少し傍に置いておくとして(肝心のところを置いてしまって申し訳ないと心より思うのだが)
現象として、善と悪というものについて私の感じるものを述べていきたい。
私は有神論者というよりは、敢えて〇〇論者というカテゴリー分けをするとすると、
多次元論者、とでも云おうか。
この多次元的世界構造に関しては過去に書いているので、そして又改めて書くとも思うので、詳しくはそちらを読んでいただければ助かるのだが、
簡単に言えばこの多次元的世界は根源的な全ての源なる存在がある。
その存在が在る場所がある。(と、私は感じている)
まだ何も分化していない、全てのエッセンスの大元になっているものだ。
それが下次元へと降りてくるにつれて徐々に様々な要素へと分化されていく訳なのだが、
その大元には、勿論、この現世界(次元)において善や悪といわれているものも含まれている。
なので、ここだけ見れば善も悪も同じ1つのもの、ということになる。
けれどもそれらが次元下降していくに従って、この現世界(次元)において善と悪という相反するものとして存在する様に感じられるようになっていくのだ。
では、
私達がここで善、悪と言っているものに少しフォーカスを当てて見ていきたい。
善、悪としている基準とはなんだろう。
一方の視点では悪でもそれがもう一方の視点では善である。
時代が変われば善とされていたことも悪となる。
文化もそもそものレイヤーから引き下ろされ悪とされてしまったりもする。
何か大切なものを守ろうとする為に悪をする。それは完全なる悪なのか。
そうせざるおえない社会システム自体は善なのか悪なのか。
〝善も悪もない。皆、ただ必死に生きている〟
私はそう感じてしまう。
しかしここで1つ、全てを一緒くたにしてはならないと思うことは
人間の成長段階である。
残忍と思われる、人を人と思わない、そんな行為を平気でする人々がいる。
この人々はでは悪なのか。
善も悪もない。その手前の段階。
この人々は極めて動物に近い発達段階であるに過ぎない。
動物的本能に近い衝動で動いてしまう。
それは生物学的要素も勿論あるだろう。
そして合わせてその周囲の環境に問題があるのかもしれない。
そんな環境をつくりだす地球規模の社会システムに問題がないとも言えない。
悪ではないから罰は与えない、と言っているのではない。
罰はあって然りである。
その社会で生きている限りはその社会のルールが基準になる。
完璧な人間などいないように、ちょっとの心の隙間に理性を利かせる為の抑止力にもそのルールはある。
ただそのルールが善かというとそうではない。
こう話していくと混乱してくるかもしれない。
では一体何を基準としたらいいのか!と。
基準は貴方の中にある。
多次元論者的に物申せば、
元々1つだったこの多次元的世界には共通の倫理的感覚が存在する。
それは、時代や国、民族、宗派を超えた最大公約数的な倫理として感じとれる。
それさえ皆が感じ取れるようになったなら、ルールなんて、法律なんて必要なくなる。
そういった類いのものである。
現代人、特に日本人は
社会に適応して生きていく為に自身の様々な感覚を麻痺させて生きている。
それは勿論自身を守る為に必要な防衛手段なのだが、肝心のところを麻痺させていたのでは、
本当に能動的な(本当の自分を生き生きと生きる)生き方は難しい。
そしてその日々の抑制が身体やメンタルの不調となって現れてくるのだ。
その人個々人によって状況、プロセスは様々なので、皆んなが皆んな、ただ身体を緩める、心を解放することが良いとは私は思わない。
なので個々人それぞれに適した方法を適したタイミングでアプローチすることが大切なのだ。
地に足を着けた心理カウンセリングによる自我創り。
自律神経を整える等の身体からのアプローチ。
エネルギーワーク。
スピリチュアルな意志の活用。
それらがどれが正しいではなく、タイミングを見て適材適所で使い分けていく。
大切なのはそれが可能な倫理観を持ったセラピストの方なのだと思う。
セラピスト自身が自分の弱さをキチンと認識し、自身の軸を持ってその倫理観に沿って生きること。
その大切さを
『善と悪とは何故存在するのか』という問いを投げかけられる度、
私は毎回い、痛烈に思い知らされのだ。
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