2016/03/29
その大いなる存在は私に
“存在することの素晴らしさ”
を有無も言わさず体感させてくれた。
自分一人ではどうにも埋める事が出来なかった部分を、
その存在は埋めてくれたばかりか、そこから溢れんばかりの愛をもこんこんと湧きい出してくれた。
一人ではどうしようもない部分。
それは一人でなければ辿り着けなかった存在によって満たされた。
私の中に(そして皆の中にも)確実に“在る”その“大いなる存在、宇宙の本体の欠片”とその本体が繋がり、
自分の奥に多次元的宇宙全てがある、というそれ以上ない心強さに支えられた。
私は解放された。
かと思った。
しかしここに一つだけ、重要なトラップが隠されていたのだ。
その私を満たしてくれた大いなる存在、宇宙の本体、大本、は、
私達が「死」とも呼んでいる次元をも含んでいる存在なのだ。
死とは精神の解放。心からそう思える。
よって死に対する恐怖は無くなる。
そして死を意識することによって、物質のない意識だけの
(意識すら存在しない混沌のエネルギーの次元も勿論あるしそれは感覚で知っている(無論エビデンスなどはないので妄想と言ってしまえばそれまでだが)が、自分が認識出来る部分は意識があるギリギリのラインまでだった)
次元を体感することによって、
この物質世界の形に現れ出たものを目に出来る素晴らしさ、
愛しいと想える人を抱きしめられる身体というものがあるという素晴らしさを思い知らされ、打ちのめされ、黄金の歓喜の雨にうたれ体中びしょ濡れになった。
一見、これこそが皆が求めているものだと思われる方もいるかもしれない。
悪いとは言わない、絶対に。
私がこの物質世界に存在し続ける為にはその体験が必要だった。
悪いとは言わないが一概に良い事なのかは分からない。
この世への執着も、なくなった。
何故なら、死んだら帰るべき場所に戻るだけだから。
そして寧ろ、郷愁の念にも似た思いで胸がいっぱいになる。
あの場所へ戻りたい、と。
守るべきもの(私の場合は一匹の犬だが)というアンカーがなければ私は今ここに存在していないかもしれない。
三島由紀夫は最後の長編小説『豊饒の海』でラストを当初の結末から書き直している。
『この世はすべて幻』
だと。
この事実を知った時、
ああ、心からこう思えている人、これを真実だと確信できている人なのなら、あの彼の生き方には心底納得が出来る。
そう思った。
この世は幻。
この物質世界、私達が生きているこの“生の世界”は“死の世界”の一部に過ぎない。
だからでは、ニヒリズム的に全て虚しくどうでもいいのではなく、
だからこそ、
自分の命の有りようを知っているからこそ、
自分が大切だと心から想えるモノの為に自分の命を躊躇なく懸けられるのだ。
彼にとってはその対象が日本という国だったにすぎない。
人の生き方に良い、とか悪いとか、強いとか、弱いとか、
そんな判断をしてしまうのは難しい。
どの視座から眺めるかによって価値観など簡単にひっくりかえる。
ただ、
自分がどう生きたいのか。
これを追求していくのは決して無駄ではないと私は思う。
何故ならそれこそが、
この“生の世界”に今存在している事の醍醐味だと思うから。
“存在することの素晴らしさ”
を有無も言わさず体感させてくれた。
自分一人ではどうにも埋める事が出来なかった部分を、
その存在は埋めてくれたばかりか、そこから溢れんばかりの愛をもこんこんと湧きい出してくれた。
一人ではどうしようもない部分。
それは一人でなければ辿り着けなかった存在によって満たされた。
私の中に(そして皆の中にも)確実に“在る”その“大いなる存在、宇宙の本体の欠片”とその本体が繋がり、
自分の奥に多次元的宇宙全てがある、というそれ以上ない心強さに支えられた。
私は解放された。
かと思った。
しかしここに一つだけ、重要なトラップが隠されていたのだ。
その私を満たしてくれた大いなる存在、宇宙の本体、大本、は、
私達が「死」とも呼んでいる次元をも含んでいる存在なのだ。
死とは精神の解放。心からそう思える。
よって死に対する恐怖は無くなる。
そして死を意識することによって、物質のない意識だけの
(意識すら存在しない混沌のエネルギーの次元も勿論あるしそれは感覚で知っている(無論エビデンスなどはないので妄想と言ってしまえばそれまでだが)が、自分が認識出来る部分は意識があるギリギリのラインまでだった)
次元を体感することによって、
この物質世界の形に現れ出たものを目に出来る素晴らしさ、
愛しいと想える人を抱きしめられる身体というものがあるという素晴らしさを思い知らされ、打ちのめされ、黄金の歓喜の雨にうたれ体中びしょ濡れになった。
一見、これこそが皆が求めているものだと思われる方もいるかもしれない。
悪いとは言わない、絶対に。
私がこの物質世界に存在し続ける為にはその体験が必要だった。
悪いとは言わないが一概に良い事なのかは分からない。
この世への執着も、なくなった。
何故なら、死んだら帰るべき場所に戻るだけだから。
そして寧ろ、郷愁の念にも似た思いで胸がいっぱいになる。
あの場所へ戻りたい、と。
守るべきもの(私の場合は一匹の犬だが)というアンカーがなければ私は今ここに存在していないかもしれない。
三島由紀夫は最後の長編小説『豊饒の海』でラストを当初の結末から書き直している。
『この世はすべて幻』
だと。
この事実を知った時、
ああ、心からこう思えている人、これを真実だと確信できている人なのなら、あの彼の生き方には心底納得が出来る。
そう思った。
この世は幻。
この物質世界、私達が生きているこの“生の世界”は“死の世界”の一部に過ぎない。
だからでは、ニヒリズム的に全て虚しくどうでもいいのではなく、
だからこそ、
自分の命の有りようを知っているからこそ、
自分が大切だと心から想えるモノの為に自分の命を躊躇なく懸けられるのだ。
彼にとってはその対象が日本という国だったにすぎない。
人の生き方に良い、とか悪いとか、強いとか、弱いとか、
そんな判断をしてしまうのは難しい。
どの視座から眺めるかによって価値観など簡単にひっくりかえる。
ただ、
自分がどう生きたいのか。
これを追求していくのは決して無駄ではないと私は思う。
何故ならそれこそが、
この“生の世界”に今存在している事の醍醐味だと思うから。
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